あの日の旅行日記〜イタリア"貧乏"旅行(5)

あの日の旅行日記〜イタリア"貧乏"旅行(4) - 始まりの景色

の続き。

イタリア旅行の話をするとき、いつも話してしまうエピソード。

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[写真:ヴィンチ村の風景]

 

ヴィンチ村でレオナルド・ダ・ヴィンチの生家を見て、バスが18時すぎに最終便が出るため、その時間に合わせてバス停に戻った。

最終便の10分以上前には到着していたと思う。

バス停で時間を見て、間に合ったことを確認していた。

なのに・・・バスが来ない。予定時刻より10分たっても来ない。

イタリアとはいえ、こんなに時間にルーズなの!?と思いながら待っていると、バス停目の前のお店(カフェというかバルというか)から、おじさんが出て来て、イタリア語で「バスは来ないよ」というようなことを話しかけてきた。

え、ずっとバスを待っていたのに・・・と戸惑っていると、別のおじさんが出て来て「この子達はずっと待ってたんだ、俺は知ってるんだ!」というようなことを言って口論が始まってしまった。

いや、あの・・・と困惑していると、最初に話しかけてきたおじさんが「お嬢さんたち・・・ヒッチハイクでもするんだな」とばかり、親指を立てた。

貧乏旅行につき最小限の現金しか持っていない。どこかに泊まったりタクシーに乗る選択肢はなかった。

もう私たちには・・・ヒッチハイクしかない・・・と、村から出ることにした。

お祭りで屋台が出て、人で賑わっていた。

いつの間にか村の入口から車両通行禁止になっていたようだ。

こんな日に・・・と恨めしく思いながら、幹線道路を2人でトボトボと歩いた。

車が通ると親指を立てた。何台もの車が通り過ぎていった。泣けてきた。

ガソリンスタンドが見えた。「ここで声をかけてみない?」とたまたま給油している夫婦に声をかけた。「悪いけど・・・」と首を振られてしまった。

日が暮れてきた。絶望的な思いで、何台も通り過ぎる車を見ていたとき。

一台の車がキキーっと止まってくれた!

中から出てきたのは・・・人相の良くないおじさん2人組。「どうしたの?」「エンポリまで・・・」「乗せてあげるよ」「グラッツェ!」

おじさん2人組の車はオンボロで、前部のドアは手で押さえていないと開いてしまう有様だった。「えーっと、チャイナ?」「ノー!ジャパニーズ」と答えた。

「本当はどこまで?」「フィレンツェです」「俺たちもフィレンツェに戻るところだから、このまま送ってあげるよ」「グラッツェ!」

調子よく話してしまった私を諭すかのように、Nちゃんがボソッと言った。

「私たち、このまま車に乗ってて大丈夫かな・・・」

「大丈夫だと思ってつい喋っちゃったんだけど・・・ごめん・・・」

後部座席でボソボソ話していると、察したドライバーのおじさんが「これ、俺の身分証明書」とわざわざ見せてくれた。「あ、どうも・・・」

気まずい雰囲気になっていたところ、助手席のおじさんがカンツォーネを歌い出した。

この歌は・・・「帰れソレントへ」だ!

イタリア語をほとんど話せないが、ここは盛り上げないと・・・!!と思い、歌い終わったおじさんに「ブラーボ!マエストロ!!」と拍手しながら褒めちぎった。「よ、日本一!」のノリで。

おじさんは「こんなに褒められたのは初めてだ・・・」といたく感激し、「じゃあ、次は!」と、この後、フィレンツェに着くまで延々とカンツォーネを歌ってくれた。

お陰で道中は賑やかだった。

フィレンツェ中央駅に到着した。

Nちゃんが、「私たちはもう・・・フレンドですね!」「え?フレンド?(英語がわからない)」「あ、アミー!」「あ、アミー!」と最後に記念撮影をした。

几帳面なNちゃんは、「写真を送りますから!」と2人の住所をメモ用紙に書いてもらった。

無事に生還した・・・と安堵した。

1997年7月28日(月)・29日(火)

強烈な旅行の記憶ができて、どう帰ったのか全く覚えていない・・・

記録によると、再び12時間以上かけて、列車でフィレンツェからそれぞれの街、ブレーメンオスナブリュックへ戻った。

今度はお金のある時に旅行しよう・・・と強く思った。