あの日の旅行日記〜イタリア"貧乏"旅行(3)

あの日の旅行日記〜イタリア"貧乏"旅行(2) - 始まりの景色

の続き。

1997年7月25日(金)

ヴェネツィアからフィレンツェへ。

前日に電話したホテルに無事到着して、チェックイン。

トイレとシャワールームは共同だが、部屋は比較的広くて椅子があり、「思ってたよりいいホテルだね」と話した。

フィレンツェではアカデミア美術館へ。

ダビデ像はその大きさにただ圧倒された。

そしてもう一つの目的、ミケランジェロの未完の作品へ。

何かの小説で「ミケランジェロの未完の作品は、そこから出てこようとする人の息吹が感じられる」といった件があり、印象に残っていたから。

確かに、「ここから出して」と言っているようだ。さらに削って磨かれると、血が通っているような石像が出来上がる。芸術家はすごいな・・・と感嘆しながら見た。

美術館を出て、「せっかくイタリア来たんだから、ジェラート食べたいね」と話した。ジェラートを買おうと値段を見たら・・・高っ、たっか!

結局食べたが、アイスの美味しさよりも、高かった記憶しかない。

後から、「安くイタリアを旅する本」に「ジェラートは高いから気をつけろ!」というアドバイスが載っていたことに気づいた。

1997年7月26日(金)

泊まったホテルの部屋に空調が無く、部屋が暑いので窓を開けて寝た。・・・のが良くなかった。

夜中に蚊が耳元で「ぷう〜ん」とするもんだから、何回も起きて十分に寝られなかった。

で、朝起きたら、体中刺されてる!数えたら20カ所以上あった。

体中が痒くて仕方がない中、出かけた。

ウフィツィ美術館へ。

ボッティツェリの"ヴィーナス誕生"や"春"が収蔵されていて、見応えのある美術館だった。

そういえばイタリアの美術館に行けば学生料金で安く入場できると期待していたが、フィレンツェはどこも高い・・・

ヴェッキオ橋まで歩き、近くのヴェッキオ宮殿に入ろうと思ったが、入場料が高く入るのを諦めた。

仕方なく、近くの公園に行き、昼寝をすることにした。

少し涼しくなってから移動し、ドゥオモに着いた。

ドゥオモに入ろうと思うと、またもや入場料が。

「ここも、有料!?」と思いつつ支払った。

階段があったので上った。天井のフラスコ画が近くで見られた。

途中で気づいた。

「ひょっとして上にいくんじゃないの!?」

教会に入るだけのつもりが、展望台へ上る入口から間違えて入場していたのだ。

ひたすら階段を上る羽目に。上りきると、展望台があった。

 

f:id:izmy2009:20180506141309j:plain[写真:ドゥオモの展望台からの眺め]

 

足がすくむ高さで、絶景を楽しむ余裕はなかった。

続きます。

注:記憶を頼りに書いているため、記憶違いがあると思います。

 

あの日の旅行日記〜イタリア"貧乏"旅行(2)

あの日の旅行日記〜イタリア"貧乏"旅行(1) - 始まりの景色

の続き。

1997年7月24日(木)

前日で早くも旅行の予算が厳しくなってしまった。

こんなこともあろうかと・・・と思っていたわけではないが、旅行前にドイツ語版「地球の歩き方」がないかを本屋で探し、「安くイタリアを旅する本」というようなタイトルの本を買っていた。

これに頼ろう・・・と次の訪問地、フィレンツェのホテルを探した。1つ星のホテルが数件紹介されていた。

よし、電話するぞ!とキオスクでテレホンカードを買った。

が、公衆電話での使い方が分からない。

どうやって使うんだ?と悪戦苦闘していると、中学生くらいの男の子が寄ってきて、パッとテレホンカードを手に取った。

盗まれた、こんな大胆に・・・!と呆然としていると、その男の子がテレホンカードの端をパキッと折って手渡してくれた。

ただの親切な男の子だった。「グラッツェ!」とお礼を言い、電話した。

「ハロー、キャンユースピークイングリッシュ?」

「・・・ノー!」

「オー、ソーリー!」

次、

「ハロー、キャンユースピークイングリッシュ?」

「イエス!」

「オー! I want to stay tomorrow・・・」

と無事に予約ができた。

一安心して、ヴェネツィアを観光した。

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[写真:聖ジョルジオ・デイ・グレーチ大聖堂をバックに]

街中を散策したり、お店が並ぶ通りを見たりした。

仮面ばかりのお店やヴェネツィアングラスのお店があった。

お土産を買う余裕ななく、ウィンドウショッピングを楽しんだ。

スーパーでコーヒー味のヨーグルトを見つけ、物珍しくて買った。

部屋で食べたら美味しくなく、またどよーんと落ち込んだ。

次はフィレンツェへ!

注:記憶を頼りに書いているため、記憶違いがあると思います。

 

あの日の旅行日記〜イタリア"貧乏"旅行(1)

留学の終わりが見えてきた1997年夏。

同じロータリー財団の奨学生でブレーメンに留学していたNちゃんとイタリアへ旅行へ行った。

留学の終わり=奨学金の終わり。

残金が心許なくなっている中、「できるだけ安くあげよう」と出発した。

1997年7月22日(火)

オスナブリュックからハノーファーミュンヘンで列車を乗り継いで、ヴェネツィアへ。

ドイツでは学生だと列車が割引料金で乗れるため、これまでも何度か列車で旅をした。

12時間以上かかるが、これもヨーロッパの旅の醍醐味・・・と夜通しで列車に乗った。

1997年7月23日(水)

ヴェネツィアに到着。

まずはツーリストインフォメーションで今日の宿を探した。

予算は、観光も含めて、1日100マルク。イタリアの通貨はリラだが、この時はマルク建でいつも考えていた。日本円で7500円から8000円くらい。

なのに・・・予約できるホテルは最低80マルクから!?仕方ないと予約したが、今後の観光に早くも暗雲が立ち込めた。

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[写真:水の都、ヴェネツィア]

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[写真:サンマルコ広場]

天気が良く、暑かった。Tシャツに短パン、サンダルで歩いていた。

サンマルコ広場に着いた。多くの観光客で賑わっていた。

サンマルコ寺院があり、入場に行列ができていた。「短パンの人は入場お断り」とイラスト付きの看板があった。とりあえず並ぶか、と並んでいたが、入口で案の定"No!"と入場を断られてしまった。友人のみ入場して、私はしばらく外で待つことにした。

友人が出てきてから、広場近くのレストランで食事をすることにした。

サラダとドリンクを頼んで座っていたら、近くの観光客が「高い!」と騒ぎ始めた。??となっている私たちに、「このコーラだけで10ドルだよ!」とわざわざ知らせてくれた。え!?でももう注文しちゃったし・・・戸惑いながら食事をして会計になると、30マルク(2,300円くらい)はしたのではないかと思う。リラだけど。

ホテルと昼食で既に予算オーバー・・・と悲しい気持ちになった。

Nちゃんが言った。

「私、万能ナイフを持ってきたんだ。スーパーでパンとトマトを買ってきて、部屋で食べれば節約できるよ。」

そうだよね!それから、パンとトマトとスライスチーズを買ってきて、部屋で夕食と朝食を食べるのが日課となった。

 

続きます。

注:記憶を頼りに書いているため、記憶違いがあると思います。

 

 

 

あの日の旅行日記〜ベルリン・プラハ・ドレスデン(4)

あの日の旅行日記〜ベルリン・プラハ・ドレスデン(3) - 始まりの景色

の続き。

1997年5月24日(土)

ドレスデンから再びベルリンへ。

この日は、留学の最初のプログラム、ゲーテ・インスティチュート(ドイツ語学校)で知り合った、Uさん夫妻宅へ。

Uさんは指揮者。音楽の勉強のためにベルリンに留学していた。

奥様とは初対面。にもかかわらず、ニコニコ気さくな方で、話が弾んだ。

「日本からの引っ越しはトン単位で大変だったよ」とUさん。自分と異なり単身ではなくご家族での引っ越しはさぞかし大変だったろうな・・・と察した。

1997年5月25日(日)

この日は朝からベルリンフィルハーモニーの演奏会の当日券を求めて、ベルリンフィルへ。

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[写真:ベルリンフィルハーモニーの前]

当日券で立見席を購入。8マルク。日本円で600円くらい。

安い!頑張って立って鑑賞します!

立見はやはりきつくて途中で座り込んでしまうこともあったが、トライアングルの繊細な音も、ドラムの地響きのような音もよく聞こえ、音楽に疎い自分でも鳥肌が立つような素晴らしい演奏だった。

「良かったねー」「ねー」と大満足で会場を後にした。

次に向かったのは、KPM(ベルリン王立磁器製陶所)のアウトレット。宮殿の陶磁器コーナーで度々見かけた、ドイツの高級陶磁器メーカー。友人のOさんが陶器を扱う仕事をしていて、この旅でも陶磁器コーナーでは解説をしてくれた。

「日本ではマイセンの方が有名だけど、ドイツではKPMはマイセンに並ぶ高級陶磁器として有名なんだよ」

「KPMはとても高級なんだけど、アウトレットでは彩色前の食器を扱っていて、とてもリーズナブルなんだよ」

へええ、そうなんだ。あまり大きくないショップで、さらに「より傷の目立たない食器を探す方法」を伝授してもらった。ホワイトのカップソーサーを2客、購入した。

金額は2客で140マルクだったように思う。日本円で10000円ぐらい。貧乏学生の身からは目が飛び出るような高級品だから、大切に大切に日本まで持って帰ろう、と心に決めた(そして「ドイツの包装は心もとないから、日本に送るときにはさらに自分で厳重に梱包してね」とOさんは教えてくれた)。

ベルリンから、それぞれ、デュッセルドルフオスナブリュックへ帰った。

私は途中でハノーファーで乗り換え。

ベルリンで乗る時から、列車が遅れていた。

乗り継ぎに間に合うのかな・・・途中で心配になり、車掌さんに聞いてみた。

"Kein Problem!"(大丈夫だよ)と笑って教えてくれた。

ああ、良かった・・・とハノーファーに着いたら、乗り換え予定の列車は既に出発していた!

仕方がないので、次の列車まで2時間、ハノーファーの駅で時間を潰した。

旅の最後にドイツの洗礼を受けた。

注:記憶を頼りに書いているため、記憶違いがあると思います。  

あの日の旅行日記〜ベルリン・プラハ・ドレスデン(3)

あの日の旅行日記〜ベルリン・プラハ・ドレスデン(2) - 始まりの景色

の続き。

1997年5月23日(金)

プラハからベルリン方面に戻る時に立ち寄った街、ドレスデン

このドレスデンも駅前はともかく、旧市街に入るといかにも旧東ドイツ、の雰囲気が漂っていた。痛んだ車やトラムを見たから?排気ガスが臭うから?レストランで素っ気なくされるから?色々な要素が合わさっているんだろうなぁ・・・

聖母教会を見に行った。

ドレスデン第二次世界大戦で大空襲を受け、壊滅的な被害を受けた街。聖母教会も崩壊して、そのまま残されていたものの、瓦礫から使える石材を再利用することで再建を始めたとのこと。そのままって・・・50年間・・・瓦礫の山になっている教会を見続けていた地元の人はどんな気持ちだったのだろう?

石材には番号が振られていた。これを再建するのに何年かかるのか?気の遠くなるようなプロジェクトを目の当たりにして、言葉を失った。

 

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[写真:再建中の聖母教会]

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[写真:聖母教会の時計や石が置かれている場所]

教会の近くでは大空襲の時に受けた被害を示す写真が展示されていた。

1997年5月24日(土)

ツヴィンガー宮殿へ。

ここは博物館だけでなく絵画も多く収蔵されていて、見所の多い宮殿だった。

帰り際のショップで、見たことのある2人の天使の絵が絵葉書で売られていた。ん?と思ったら、どうやらラファエルの有名な絵"システィーナの聖母像"が展示されていたらしい。全く気がつかなかった・・・

宮殿は川の近くにあった。川辺を2人でのんびり散策した。

この日のうちに、ベルリンへ再び戻った。

続きます。

 注:記憶を頼りに書いているため、記憶違いがあると思います。  

 

 

あの日の旅行日記〜ベルリン・プラハ・ドレスデン(2)

あの日の旅行日記〜ベルリン・プラハ・ドレスデン(1) - 始まりの景色

の続き。

1997年5月22日(木)

ベルリンから列車でプラハで。

国境では入国審査がものものしい雰囲気で行われた。やましいことがなくても、何か問題があって行けなかったら・・・と緊張する。

無事に国境を越え、プラハ中央駅に到着。

駅から歩いて予約しているホテルへ向かった。

地図を頼りに歩いていると、派手なピンクの建物が・・・「あれ?」「なんだかラブホみたいだね・・・」と言いながらチェックイン。比較的大きなホテルだった。

チェックイン後は旧市街を散策。「プラハは美しい街」と聞いていたのだが・・・石畳の旧市街はドイツでも珍しくなく、それより落書きがあちこちにある方が気になる・・・治安があまり良くないのかな、という印象を受けた。

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[写真:カレル橋の見える橋から]

1997年5月23日(金)

この日は丘の上にあるプラハ城へ向かった。ふうふう言いながら歩くと、丘の上からは市街地を望むことができた。

 

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[写真:プラハ城]

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[写真:プラハ城からの眺め

ただ、あいにくの天気で、せっかくの眺めもあまり楽しむことができなかった。

ゆっくり下り、カレル橋へ。

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[写真:カレル橋の塔]

 

次の地、ドレスデンへ。

続きます。

注:記憶を頼りに書いているため、記憶違いがあると思います。  

 

 

 

あの日の旅行日記〜ベルリン・プラハ・ドレスデン(1)

ドイツのGWともいえる、まとまった休みがあったので、デュッセルドルフ日系企業で働く友人のOさんと旅行に行った。

 

1997年5月19日(月)

前日にOさんにはオスナブリュックまで来てもらい、この日は列車でベルリンへ。

ベルリンでは大学時代にお世話になったH先生がサバティカルのため家族で滞在しているので、図々しくも泊めてもらいに伺った。

この日の夕食は水餃子。H先生奥様の手作り。ものすごく美味しかった!

ドイツでは餃子は不評のようで、中華料理店で見かけることはほとんどなかった。春巻きはあるんだけど。「餃子のモチモチしている皮がドイツ人にはうけないらしいよ」と誰かから聞いた。

「ママー、私たちのベッドは?」「今日はお姉さんたちが寝るのよ」す、すみません・・・

恐縮しながらも2泊させてもらった。

1997年5月20日(火)

ベルリン市内を観光。

博物館に行くと、コレクションの膨大さに圧倒した。

旧西ベルリンから旧東ベルリンに入ると、途端に街の雰囲気が変わるのを感じた。

建物の傷みが激しい。たまたま通りかかった建物の外観があまりにもボロボロで言葉を失った。

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[写真:旧東ベルリンの建物]

ブランデンブルク門を見に行った。

ベルリンの壁が崩壊したのは1989年。つい8年前まで、この門の手前と向こうでは別の国で、自由に行き来をすることもできなかったんだな・・・と思う。

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[写真:ブランデンブルク門]

1997年5月21日(水)

この日も、ベルリン観光。

H先生奥様が「ご飯代もばかにならないでしょう」と、朝食時にサンドイッチを作って持たせてくださる。昨日も、今日も。何から何まで・・・貧乏学生には嬉しいお心遣い、ありがとうございます!

シャルロッテンブルク宮殿へ。

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[写真:シャルロッテンブルク宮殿]

次に訪れたのは、ベルリンの壁博物館。

ベルリンの壁が崩壊する前日に、国境を越えようとして逮捕された人の写真が展示されていた。車(トラバント!)の展示では、座席の裏に人が隠れるように改造してあり、マネキンが入っていた。そのほかにも、国境に向かって銃を構える国境警備隊の姿など、ベルリンの壁を巡る悲劇が展示されていた。「結構、重いね・・・」と言いながら博物館を出た。

翌日からプラハへ。

続きます。

注:記憶を頼りに書いているため、記憶違いがあると思います。